いじわる王子に拉致られて

あらすじ

「時は満ちた。約束通り、リリィは俺が連れて行く」カールハインツはそう告げた。――四年前、記憶を失って倒れていたリリィは、助けられた修道院で暮らしていた。そこに時折訪ねてくる貴族の青年カールに密かに憧れを抱いていたリリィだが、この日目覚めると、そこはお城! しかもカールは王子だという!! 「お前は今日から俺のものだ」そう告げる彼のまわりは、吸血鬼や狼男、魔術使いら七人の騎士が仕えている。果たしてカールの真の目的は!? リリィの過去に秘められた謎とは!?

キャラクター紹介

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リリィ

記憶を失って倒れて
いたのを助けてくれ
た修道院で暮らす。
貴族の青年カール密
かに憧れている。

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カールハインツ

大陸を統べる王族・
ヴァイスミュラーの
王子。リリィには、
穏やかで優しい青年
に思えたが…。

試し読み

「どうしよう! このままじゃ……そうだ、アイザックさん!」
 彼の力なら、ジェイドを死の淵から救い上げることができるかもしれない。とっさに思いついて、彼女はアイザックを呼ぶべく、彼から離れようとする。
「り、りぃ……、リリィ……!」
 離れようとする彼女の腕を、ジェイドは掴んで引き留めた。くんっと弱々しい力で腕を引かれ、その言葉を聞き取ろうと彼女は彼の口元へ耳を寄せる。
「お、ねがっ……ちょう、だい……」
「なにを……私は、どうすればいいの!?」
「血、を……血を、吸わせて……すぐに、塞がる……っ」
 彼は顔を横へそらして、ごほっとむせた。彼女の膝の上に血を吐き出して、彼は小刻みに震えだす。迷っている時間はない。リリィは一瞬で意を決すると、重たい彼の身体をなんとか助け起こす。そのまま向かい合って、自らの首元に、彼の頭を乗せた。
 華奢な白い首、濃密に香る彼女の甘い匂い。ジェイドはごくりと喉を鳴らすと、彼女の首筋に舌を這わせた。痛みに備えているのか、がちがちに固まっている彼女を抱き込んで、その白い肌を唾液で濡らす。
 彼の行為にぞくぞくと身を震わせるリリィの背に軽く爪を立てると、一息にやわらかい肌に咬み付いた。肌を食い破る音が耳に響き、次いでずるずると血を啜る音が彼女の鼓膜を震わせる。
リリィは恐怖で身がすくんだ。じっと耐える彼女だったが、鋭い痛みが走ったのは一瞬で、すぐに甘美な快感が押し寄せてきた。彼の荒い息遣いと、血を啜る音が、リリィの耳元で生々しく続く。
「あぁ……っ!」
 怖いのに、どうしてこんな声が出てしまうのだろうと、彼女はぼんやりと思った。吸血行為が激しい快楽を伴うことを、彼女は知らなかったのだ。リリィは唇を噛みしめても耐えきれず、鈴の音のような高い声を上げる。
 彼が吸いきれず零れた血が、彼女の胸の方へ、つうっと伝っていった。彼はいったん牙を抜くと、胸から噛み跡へかけて、零れた血を舐め上げる。
「はぁん……っ」
 熱い吐息を漏らしてされるがままになっている彼女の首筋に、ジェイドはもう一度その鋭い牙を突き立てる。リリィは大きな波のように襲ってくる快楽に翻弄されて、ゆるゆると意識が遠くなるのを感じた。

「そこまでにしておきなさい」
 ふいに、穏やかな声がかかる。ジェイドは瞳を動かしてその声の主を視界に入れる。中庭の方から歩いてきたその人物は、その光景に少しだけ顔を強張らせた。
 闇の中、抱き合う男女はおびただしい量の血で濡れていた。その腕にかき抱いた黒髪の美しい乙女を、思うがまま貪る吸血鬼。欲にまみれた紅い瞳。リリィの甘美な血を、狂ったように求めて傷を癒すその様は、まさしく魔の者だ。
「ジェイド、もうやめなさい。彼女が死んでしまう」
「彼女、すごくイイんだ。こんなに美味しい娘は初めて……このまま飲み干してしまいたい」
 恍惚の表情でそう言って、また彼女の肌に牙を突き立てようとするジェイドを、アイザックは制した。
「もう貴方の傷は塞がってきているでしょう。我がままを言うものではありませんよ」
 口調こそは穏やかだが、いつもの彼からは考えられないくらい、その表情は冷え冷えとしたものだった。ジェイドは渋々といった様子で、リリィを解放する。
「アイザック、さん……?」
 うつろな瞳に彼を映し、その名を呟いたリリィは、そのまま重たい瞼を閉じて、意識を手放した。アイザックは倒れ込む彼女の身体を支えて、ジェイドのつけた二か所の咬み跡に手をかざす。すぐに手のひらから淡い光が漏れ出し、その生々しい吸血の傷跡を癒した。
「やはり、血を奪いすぎましたね」
 アイザックは青白い顔で気絶したリリィを軽々と持ち上げ、横にして抱き上げた。もうすっかり傷の塞がったジェイドに軽く視線をくれると、すれ違いざまに一言述べる。
「流石にこれは報告しないわけにはいきません。貴方は今夜は休んで、何があったかは、明日彼に」
 ジェイドはこくりと頷く。しかし彼の視線はなおもリリィの白い肌に注がれていて、赤い舌が血のついた口元を妖しく舐めた。アイザックに抱き上げられて遠ざかっていくリリィを、ジェイドはうっとりと瞳を細めて見送る。
 ああ、なんと甘く魅力的な娘だろう。その血も、白くやわい肌も、声も、吐息も、血を通して流れ込んでくる感情も、すべて。今まで喰らってきたどんな女より甘美で、極上だった。こんなに条件の揃った娘など、滅多にお目にかかれるものではない。
 口内に残る彼女の味に酔いしれながら、ジェイドはしばらく余韻に浸っていた。

 薄い月明かりが差し込む廊下を、アイザックはリリィを抱き上げたまま歩く。目的の部屋付近まで来ると、廊下の窓辺で佇む人影が振り返った。アイザックの腕の中の血みどろの彼女を見、彼は悲痛な表情で呟く。
「リリィ……」
 そのまま、彼は彼女を両の腕に受け取る。軽すぎるほど重量のない彼女は、薄暗い月の光でも明白なほど、顔色が悪い。
「無理やりではないようです。彼女自らの意志で、血を与えた様子でした」
「……そうか。奴は?」
「ジェイドの傷は塞がりました。かなりの大怪我だったのでしょう、これだけの血を奪っても回復に時間がかかっていましたから」
「アイザック、ご苦労だったな」
「私も、もう少し早くに気づいていればよかったのですが」
 眉根を寄せるアイザックに、カールハインツは緩く首を横に振った。終わったことを今更どうこう言っても、何かが変わるわけではない。軽く頭を下げるアイザックと別れ、カールハインツは自室へと身を翻した。開け放っていたままだった扉から中へ入り、器用に扉を閉めると彼女をベッドへと下ろす。
 どす黒く染まった純白のネグリジェをそっと脱がし、あたたかい湯で絞ったタオルで身体を拭いてやる。血だらけだった身体が綺麗になったところで、とりあえず彼のシャツを着させた。
 カールハインツは彼女の隣に寝転がって、その華奢でやわらかい身体を抱きしめる。久しぶりに感じる彼女のぬくもりは、酷く頼りなかった。気を失うほどに血を啜られ、彼女はしばらく目を覚まさないかもしれない。
「俺は、どうにかなってしまいそうだ」
 切なげな声音で、囁くようにぽつりと零した。
「会えない間も、俺の心はお前のことばかり。夜ごと、お前を無理やりに抱く夢まで見る」
 腕に力を入れ、彼女をぎゅっときつくかき抱く。彼女に触れている肌が熱い。やわらかい彼女の感触に、どくどくと鼓動が高鳴った。彼女の声が聴きたい、笑顔が見たい。小さく震えて感じている声も顔も、今すぐに確かめたい。
 渦巻く愛欲に激しく苛まれながら、カールハインツはリリィの青白い頬に触れた。
「俺は、お前のすべてが欲しい。どうすれば俺のものになる。リリィ……」
 闇に消え入りそうな声で囁く。彼女を腕の中に閉じ込めたまま、カールハインツは眠れぬ夜を過ごした。

   汚れぬ純白

 ガラス一枚隔てた窓の外から、歌うような小鳥のさえずりが耳に届く。夜が明けて、空が白みはじめる時刻。結局、カールハインツは一睡もしていないまま、朝を迎えていた。
 こうして彼女を腕の中に閉じ込めたまま過ごしたのは、どれくらい前のことだったろうか。若い男女が同じベッドで一夜をともにしているというのに、ろくに手も出さずにただ一緒に眠るだけ。
 女を褥に連れ込んでおきながら、抱かずにいるなんて、彼女が初めてだ。それも、一度の話ではない。もう何夜かそんな状態で過ごし、彼女が腕の中にいる幸福感と、彼女を抱きたい欲望との板挟みを感じてきた。
 こんなにも近くにいて、こんなにも彼女を欲しているのに、本気でリリィを抱こうとはしなかった。そう、あの夜までは。
 ゆっくりと彼女のペースに合わせるつもりだったのに、嫉妬に狂って理性を飛ばし、きつく拘束して唇を奪い、泣き叫ぶ彼女にたくさん印を刻んで。今まで抑え込んでいたものが一度に溢れだして、乱暴に彼女の身体を弄んでしまった。
 あの時、正気に戻るのが遅れていたら。ドレスを引き裂き、彼女の中に無理やり押し入って、痛みに気を失うまで何度も突いて凌辱して。あの夜から毎夜のごとく、そんな夢を見る。
 リリィに会えば、リアルなその夢が現実になってしまいそうな気がして、彼女を避け続けた。それでも日に日にリリィを求める気持ちは積み重なり、会えない時間に胸が軋んだ。
 どうしようもなく愛おしい。どんなものより大切で、護ってやりたい。しかしそれと同時に、滅茶苦茶に壊してしまいたくもなる。そんな相反する衝動に駆られて、紙一重の切なさに苛まれている。
 カールハインツは深く息を吐き出した。
 腕の中で眠るリリィは、そんな狂ってしまいそうなカールハインツの想いなど、理解していないのだろう。色恋の経験のない彼女は、子の作り方だって最近まで知らなかった。それもきちんと理解したわけでもなく、未だに裸でただ抱きしめ合うだけで、子を授かれる程度に思っているかもしれない。
 まさか体内に男を受け入れ、その快楽の証を受け止めることだとは、想像もつかないことだろう。彼女にとっては、恋愛感情すら未知の領域なのだ。四年より前の記憶がない彼女は、潔癖な修道院で過ごしていたこともあり、極度の世間知らずだった。
「リリィ。俺はお前を抱きたい」
 愛する女を抱きたい。若い男にとって、そんな欲望を持つのはむしろ健全なことだ。
「ゆくゆくは俺の子を産んでほしいとさえ思っている。ずっとお前とともにいたい。お前で満たされたい」
 まるで語りかけるかのように、眠る彼女にそっと囁く。
「四年前、やっとお前を眠りから解き放ったというのに、また眠っていてはあの頃と変わらない」
 早く目を覚ましてくれ。そんな願いを込めて、リリィの唇に自分のものを重ねた。触れ合った彼女のやわらかな感触に、止まらなくなるのを恐れてベッドから起き上がる。
 名残惜しく思いながら着替えて、数分の間じっと彼女を見つめてから、カールハインツは静かに自室を後にした。

 カールハインツが執務室の扉を開けると、既に室内でジェイドが待っていた。大怪我と聞いていたがもうすっかり傷は癒えた様子で、彼はカールハインツをいつもどおりの無表情で出迎えた。
「昨夜は手酷くやられたようだな。お前らしくもない。何があった?」
「途中まで後をつけましたが、見てのとおり見つかって返り討ちです。手練れ、なんてものじゃなかったですよ。まぁ僕も、少し油断はしていましたが」
 腕の立つジェイドが、まさかこんなにあっさりと失敗するとは。
「生粋の高位ヴァンパイアが、少しの油断でたかだか人間にやられるものなのか?」
「あんまりいじめないでくださいよ。僕だって驚いてるんですから」
 ジェイドは「プライドずたずたです」と、ため息をついた。
「やはり、ソーサラーの優男とシミターの大男か?」
「その二人もいましたが、あともう一人……流石に手練れ三人対、僕一人では、逃げ帰るのがやっとでした」
 口調こそ淡々としたものだが、相当悔しい思いをしたらしい。ジェイドの無表情に、少しだけ感情が見え隠れしている。
「奴ら、鼻が利きますね。僕が吸血鬼だってこと、あっさり見破りました」
 ジェイドの言葉に、カールハインツは少し驚いた。彼の偽装は完璧だ。余程のことがない限り、ただの腕の立つ人間にしか見えない。
「もしかしたら、魔の者が混じっているのかも」
「まさか。魔の者が、たかが人間の密猟団ごときに組するものか」
「僕もそう思います。けど、あの強さは人間の域を超えている。それに彼らから少しだけ、僕と同じ雰囲気を感じました」
 そんな馬鹿な。それは有り得ない、とカールハインツは思った。魔の者は総じてプライドが高い。平和協定を結んだとはいえ、未だに人間のことを餌程度に思っている者だって、珍しくはないのだ。
 そんな者達が人間と手を組み、従い、同じ魔の者を狩っているなど、どうあっても考えにくい。
「ヨルク様、とやらは?」
「いないようでした。恐らく、あの三人は幹部でしょう。そしてやはり頭領が、そのヨルクという人物じゃないかと」
「そうか。幹部の中に魔の者がいるのか、はたまたそのヨルクとやらが魔の者なのか」
 どちらにせよ、少しでもその可能性があるなら、対策を練る必要がある。一筋縄ではいかない連中だとは思っていたが、まさかジェイドを圧倒するほどの戦力を有しているとは。少し、甘く見すぎていたか。
「そういえば」
 カールハインツが思案していると、ふと思い出したのかジェイドが彼の思考を中断させる。
「リリィ。目、覚ましました?」
 悪びれる様子もなく、ジェイドはカールハインツへと問う。リリィ。彼の口から飛び出した彼女の名。
 カールハインツは、ざわりと胸の辺りが落ち着かなくなる。ジェイドが彼女の名を口にするのを、彼は今初めて聞いた。今までは、彼女と呼ぶばかりで、名で呼ぶことなどなかったのに。
「目を覚ましたか、だと?」
「はい。結構な量を吸ったから、やっぱりまだ起きてないかな」
 ジェイドは昨夜、彼女の血を貪るように啜った。彼女の白い柔肌にその鋭い牙を突き立て、純白のネグリジェがどす黒く染まるまで、その腕の中に閉じ込めて。おまけに吸血行為は、抗い難いほどの快楽を伴うと聞く。リリィは鳴いたのだろうか。ジェイドの腕の中で、あの時のように甘い声を上げて。
 カールハインツの心中で、再び激しい悋気が渦巻く。
 彼女の血は、瀕死の重傷を負ったジェイドを死の淵から救い上げた。しかし、リリィは心から望んで彼にその身を捧げたわけではない。そのはずだ。
「すごく怖い顔してますね。そう心配しなくても、リリィは僕の生命を助けることだけを考えていました」
 そう言うジェイドは続けて、「ただ、身体はそうはいかなかったみたいですけど。声を我慢しながら結局はあんあん鳴いていましたよ」とのたまった。そのジェイドの言葉を聞き、カールハインツは軽く眩暈を覚えた。
 嫉妬の炎で身を焦がしながら、それでも努めて冷静に振る舞うカールハインツを、ジェイドは無表情で見る。
「リリィって本当に可愛いですよね。僕の与える快楽に必死に抗おうとするなんて、無駄なのに。みんなが目の色を変えるのがわかりますよ」
 僕もリリィが欲しくなりました。そう言ったジェイドの瞳は紅く染まっていて、昨夜の彼女を思い出しているのか、うっとりと瞳を細めた。
「そういうことで、隙あらば僕がもらいます。あんなに甘美な血と魂を持った女、なかなかお目にかかれませんしね」
「お前にだけは、絶対にやらない。エルネストにだって、リリィをくれてやる気はない。あれは俺のものだ」
「残念ですが、僕は引き下がるつもりはないです。選ぶのはリリィ本人ですからね。僕は虜にする自信、ありますけど」
 ジェイドは珍しく、唇の端を持ち上げてにやりと笑った。意味深な笑みを一つ残し、彼は執務室を去る。カールハインツは憤然として壁を殴りかけ、すんでのところで押し留めると、震える拳を下ろした。
 そのまま荒々しく椅子に腰かけ、執務に手をつけはじめる。しかし、いくら集中しようとしても彼のイライラは治まらなかった。

 痛むような喉の渇きに、彼女は目を覚ました。なんだろうか、身体が酷くだるい。だんだんとはっきりしてくる意識の中で、リリィははっとした。
「そうだ。私、ジェイドくんに血を吸われて……!」
 そっと、おそるおそる首から肩にかけて手のひらを滑らせる。しかしそこにあるはずの噛み跡はなく、彼女はほっと息をついた。
 そうか、夢だったのか。そう自己完結して、リリィは再び瞳を閉じた。だいたい、まだ外は暗い。悪夢を見て中途半端な時間に目が覚めてしまったに違いない。一人納得して、ごろりと寝返りを打つ。
 そうして、ふかふかの枕からふわりと香るかすかな匂いに、彼女は驚いて飛び起きた。途端、襲ってくる眩暈に再び頭が枕へ沈む。
「これ、カールの匂い……どうして私の枕から?」
 そこまで来て、彼女はやっと異変に気がついた。ぐるりと暗い室内を見回す。違う。ここは、自分の部屋ではない。おまけに着ている衣服にも違和感を覚えた。暗闇の中で確認すると、それには袖があり、あきらかにいつも着ているネグリジェではなかった。
「シャツ? しかもちょっと大きい……まさか、カールの?」
 そこまで思い至って、ここが彼の部屋であることに気がつく。どうして自分はここにいるのか、どうして彼のシャツを着て彼のベッドで寝ていたのか。思案する彼女は、自分の身体を確認する。
「やだ……私下着、着てない!」
 上下とも下着は身に着けないまま。自分で着替えた覚えはない。まさか、まさか——。
「目が覚めたのか……!」
 暗闇から聞き馴れた声が響く。そちらへ視線を動かすと、続き間の方から部屋の主がベッドに近づいてくるのが見えた。彼は急いたようにベッドに寄り、スプリングを沈ませてその上に腰を下ろすと、リリィの頬に手のひらを滑らせた。
「ああ、リリィ。このまま目覚めなかったらと、何度思ったことか……」
 酷く安堵したような空色の瞳は、彼女の身を案じていたことを物語っている。するすると頬を撫でる手に、リリィの身体がぎくりと強張る。ふわりと香る、彼の匂い。その香りに、その姿に呼び覚まされるように、あの夜の記憶が、目まぐるしいほどの勢いで彼女の頭の中を巡りはじめた。
 渇いた喉がひりつき、思わず吸い込んだ空気が、喉に引っ掛かってひゅっと鳴る。あの夜の彼の、ただただ欲に満ちた瞳を思い出す。あのとき痛いくらいにきつく、彼の手で拘束された両の手首の辺りがざわつく。
 怖い、怖い。声が、出てこない。彼女の身体は、かたかたと小刻みに震え出し、瞳には熱いものが込み上げてくる。
 いやだ、やめて。痛いの、心が、痛いの。リリィはぎゅっと瞳を閉じた。いっぱいに溜まっていた涙が、目尻を滑って枕を濡らしていく。ふと、頬を撫でていた彼の手が離れた。
「涙を流して震えるほど、俺が嫌か……」
 そう言った彼の声音は、驚くほど頼りなげで、まるで泣いているのかと思うほどに切なかった。リリィはおそるおそる瞳を開けて、ぱちぱちと数度瞬きをすると、視界を滲ませていた涙がすべて零れ落ちた。
 雲間を抜けた月の光が、彼女を覗き込む彼の顔を照らす。安堵と痛みと切なさ、いろいろな感情がないまぜになった瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめていた。苦しそうな、傷ついた表情。
「悲、しい、の……?」
 渇いた喉から絞り出すように、言葉が思わず口をついて出ていた。リリィはまだ少し震えながら、躊躇いがちに彼の瞳をじっと見返す。すると彼の瞳が少しだけ、見開かれた。
「なんだと……?」
「泣きそうな、顔、してるの。カールも、痛いの? 心、が……っ!」
 そこまで言って、リリィは咳き込んだ。はっと気がついたカールハインツが、ベッドサイドに置いてあった水差しからグラスへと水を注ぐ。
「水だ。起き上がれるか?」
 リリィは起き上がろうとして途中で眩暈に襲われ、再びベッドへと倒れ込んだ。そんな彼女の様子を見ていたカールハインツが、何も言わずにグラスに口をつける。
 水、飲めていいな。ちょっとずるい。そんなことをリリィがぼんやり思っていると、グラスを置いた彼が無言でベッドの上の方へと上がってきた。
 驚いて逃げようとするが、身体が重く思うように動かない。カールハインツは静かにリリィの上に覆い被さる。片手でくっと彼女の華奢な顎を捕まえて、細長い指で白い首筋をなぞる。
 ぞく、と背中に震えがきて、やめてと声を上げようと口を開くと、彼の顔が迫ってきて唇を奪われた。開いた桃色の隙間から、彼の口内の水が、リリィの口内へと流れ込む。反射的にごくりと飲み干してしまい、彼女は自分が思っていた以上に喉が渇いていたことを知る。
 喉を滑り落ちる水分に、渇いた身体が歓喜している。もっと、欲しい。もっと、飲みたい。
「水、もっと」
 せがむ彼女に、カールハインツは一言も喋ることなく、ただただ無言でリリィに口移しで水を与えた。そのたびに、こくこくとリリィの細い喉が鳴る。その行為を何度か繰り返し、ようやっとリリィはほっと息をついた。
「あ、ありがとう。あの……水、飲ませてくれて」
 いくら喉が渇いていたとはいえ、冷静になって思えば、とんでもないことを要求してしまった。自らキスをねだってしまったのだ。それも、怖いと思ってしまった男に。かっと彼女の頬に赤みが差す。
 今の口移しの彼のキスは、とても優しいものだった。あの夜みたいに、荒々しい熱のこもったものではなくて、労わるような、慈しむようなキス。彼女が頬を染めて礼を述べると、再びゆっくりと彼の唇が迫ってくる。
 今度の彼は口内に水を含んでいない。口移しではない、ただ相手を求めるそれを、しようとしている。それはあの夜の彼の姿と少しだけ、重なった。けれどもう、不思議と耐えきれないほどの恐怖は襲ってこなかった。
 リリィは瞳を閉じて、躊躇いがちにそれに従う。小さく開いた唇の隙間から、彼が侵入してくる。委縮する彼女の舌を絡め取り、音をさせながら軽く吸う。頭の芯から甘く痺れが広がるような、彼の行為。瞳を閉じる前、間近で一瞬見た彼の強く求めるような艶っぽい表情が、リリィの閉じた瞳に強く焼き付いていた。
 今夜の彼は、彼女が初めて見る表情ばかりを見せる。どことなく寂しそうな、陰のある瞳。少し下がった眉尻。それと相反する、今まさにキスの最中に交じる、熱い吐息。
 私は、何をしているんだろうと、リリィはふわふわした思考で、考える。怖かったはずの彼にキスをされて……たぶん、感じている。そんな感覚を知り自覚したのは、つい最近のことであった。ただ何となくしかわからないなりにも、彼女は彼の与える快感をされるがまま享受した。
 そうして、どれくらい経ったのだろう。月明りが差す暗闇の中、ふたりで深いキスに耽り。やがて静かに唇が離れると、カールハインツは彼女の頭を撫で、黒髪を優しくすいた。愛おしげに繰り返されるそれに、リリィは困惑する。
「あ、の……?」
「お前のキスが」
「え?」
「お前のキスが、上手くなっていなくてよかった。俺以外の男の色に染まっていなくて、よかった」
 そう言った彼は、酷く優しい笑顔を浮かべていた。リリィは不思議な感覚に陥る。久しぶりに会った目の前の彼は、拍子抜けするくらいいつもの毒気がない。思い出すのは、彼女がまだ修道院にいた頃のカールハインツだった。あの時の彼は今にしてみれば作り物の姿だったのだけれど、すべてが嘘偽りの姿だったわけではないことを、今リリィは知った。
「好きだ、愛している」
 そんな言葉を熱い瞳で真摯に囁きかけてくる彼に、リリィは調子が狂ってしまう。いつもの意地悪な彼は、どこへ行ってしまったのか。
 カールハインツは彼女に覆い被さったまま、赤い顔で呆けているリリィをじっと見つめた。彼女の細い腕を取って、それに何度も触れるだけの口づけを落とす。華奢な手首、なめらかな腕の内側の肌に、ゆっくりと唇を這わせて。
 壊れ物を愛でるかのような彼の行為とムードに流されかけ、はっとしたリリィは慌てて彼の胸を腕で押す。しかし、当然のことながら、彼女の力では彼を押し返すことなど到底不可能だった。
「だ、駄目っ」
「駄目、と言われると、もっとしたくなるな」
「駄目、駄目だってばぁ……!」
「お前がそんなことを言うから、我慢していたのに余計に歯止めが利かなくなる」
 にやり、とカールハインツの唇の端が持ち上がる。いつもの、意地悪な笑み。リリィは、そうと知らず彼に火をつけてしまったようだ。
「やめてほしかったら、一つ俺の要求をのめ」
「要求……?」
「お前から、お前の腕で、俺を抱きしめてくれ」
「え?」
「ほら、やめてほしいのだろう? 返事は?」
「やんっ……やります、やりますっ!」
 軽く掴まれた腕の手のひらを舐められ、リリィは反射的に肯定の返事をしてしまった。彼は彼女の返答に満足げに笑みを深くすると、毛布の中に入って彼女の隣に身を横たえた。
 いくら反射的にとはいえ、やると言ってしまった手前、やらないわけにはいかないと、彼女は仕方なく覚悟を決める。ゆっくりと彼の方へ寝返りを打ち、身体を寄せて、おずおずと腕を伸ばす。
 固く引き締まった身体を細い腕で抱いて、「これでいいの?」と小さく彼に問う。すると返事の代わりにすぐさま彼の腕が伸びてきて、リリィを抱き寄せた。
 ぴったりと寄り添ってくるカールハインツのぬくもり。少しの間、どちらも一言も発しなかったが、リリィは恥ずかしさと沈黙についに耐えきれなくなった。
「あの、私、どうしてカールの部屋にいるの?」
 腕を背中に回したまま、彼女はおそるおそる尋ねた。一瞬、沈黙があって、カールハインツの低い声がそれに答える。
「昨夜、ジェイドに血をやったのは覚えているか? あの後、気を失ったお前をここへ運んだ」
「やっぱり、夢じゃなかったんだ……。でもどうして噛まれたのに、傷がないの?」
「アイザックが治療した。流石に失った血まではどうしようもなかったがな」
 きゅんと、彼女を抱きしめる腕が強くなる。双方ともに背中へ腕を回しているため、身体と身体がぴったりくっついて、リリィの鼓動がどきどきと暴れた。恥ずかしい。身体が熱い。
「ねぇ、私、いつの間に着替えたの? 気を失う前に、自分で着替えたんだよね?」
 一縷の望みを託し、ほとんど自分に言い聞かせるように問いかけた言葉は、しかし無情にも否定された。
「いや、俺が着替えさせた。大量の血で服も身体も汚れていたからな」
「は、裸見たの? 見てないよね?」
「どうやって見ないで着替えさせることができるというんだ」
 半ば祈るように問う彼女に、カールハインツは呆れたような声音で言った。リリィは頭の天辺から、さっと血の気が引く感覚がする。
「うそ……じゃあ、下着は」
「下着も血がしみていたから剥ぎ取った。汚れていた身体も丁寧に拭いた」
「身体は侍女の人が拭いてくれたんだよね? カールはそんなことしないよね?」
「くどい。すべて俺一人でやった。リリィを脱がせたのも着替えさせたのも、身体を拭いたのも俺だ。もちろん、隅々まで、な」
 カールハインツは喉をくつくつと鳴らすと、「心配するな、お前の身体は美しく魅力的だ、自信を持て」と言った。そんな彼の言葉に、リリィの恥ずかしさは頂点に達した。羞恥に瞳を潤ませ、耳まで真っ赤にしてカールハインツの背中を何度も叩く。
「変態っ、ばかぁ! ううう……もうお嫁に行けないっ」
「何を言っている。俺以外のところに、嫁になど行かせるものか」
「す、好きな人のお嫁さんになるんだもん。カールなんて、知らないっ」
 リリィは身体をひねって、彼の腕の中から逃れようとする。しかし逆にきゅうきゅうときつく抱きしめられてしまって、彼女の抵抗は無駄に終わった。
「どこにも行かせない。俺を好きになれ、リリィ」
 有無を言わせぬ強い言葉なのに、彼のその声音には懇願の色が混じっている。
「お前が欲しい。心も身体もすべて。気が狂いそうなほど求めているというのに、少しもお前に届かない」
 いつも自信たっぷりの彼なのに、らしくない愁いを帯びた囁きに、リリィは何も言えなくなってしまう。
 どうして、自分なのだろう。どうして、彼は自分に愛を囁くのだろう。彼を特別に想っている女性は、たくさんいる。夜会の日、彼の周りは彼を想う貴族の令嬢達でいっぱいだった。彼女達は皆一様に熱のこもった瞳で彼を見つめ、うっとりと幸せそうに彼と踊っていた。誰かを特別に想う、恋をするというのはきっと、彼女達のような状態を言うのだ。
 リリィは今一度、自分を顧みた。自分は彼のことをどう思っているのだろう。意地悪で強引で、すぐ身体に触ってきて、私の嫌がることばかりする。でも、たまにちょっとだけ、ほんの少しだけ優しい時がある。そんな彼を、嫌いになれずにいる。それがリリィの、今の正直な気持ちであった。
 彼のことを好きになれたら、誰よりも特別に想えたら、幸せな気持ちになれるのだろうか。あの貴族の女性達のように。
 ぴったりと密着した彼の身体から伝わる熱のあたたかさに、リリィは重たい瞼を閉じる。鉛のように重い身体から力が抜けて、彼女は酷い眠気に抗えず、ゆっくりと再び意識を手放した。